取扱品目
"稲毛質店では金やプラチナをはじめ、時計や宝飾品、
電化製品など幅広くさまざまなお品物を取り扱っております。
ご利用の際はお気軽にお問い合わせ下さい。"
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貴金属
金やプラチナの製品
イニシャルの入ったリング、切れてしまったネックレス、片方しかないイヤリング、
壊れてしまったお品物でもお取引できます。
買取金額は、1gあたりの本日の相場×重さというように算出します。
地金の相場は日々変動しています。その日の当社相場でお取引します。
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金券・商品券
一枚からお買い取りしております。 保存状態が悪く変色をしているものや、汚れ、折れてしまったものはお買い取りできない場合があります。 金券などに使用の有効期限があり、使用期間が短い場合はお断りする場合があります。
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宝飾品
ダイヤモンドや色石がついた宝飾品
ルビー、サファイア、エメラルド、アレキサンドライト、キャッツアイ、オパール、パールなど
ブランド品、ノンブランド品にこだわらず、宝飾品はお取引できます。
お品物の鑑定書や鑑別書があればお持ち下さい。
ブランド品の場合は、保証書や箱など、ご購入時の付属品も一緒にお持ち下さい。
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時計
腕時計、懐中時計、置時計など
有名ブランドのお時計をお取り扱いしています。
機械故障や電池切れなどで、正しく動作をしないお品物はお断りする場合があります。
箱や保証書、余りゴマなど、購入時の付属品も一緒にお持ち下さい。
メーカーで修理の履歴のある品物は、修理証明書や修理伝票も一緒にお持ち下さい。
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ブランド品
バック、財布、小物、万年筆など
保証書や箱、保存袋など、ご購入時の付属品も一緒にお持ち下さい。
使用頻度が多く、破れていたり程度の悪いお品物はお断りする場合があります。
一部のブランド品は、国内正規店のギャランティカードがないとお断りする場合があります。
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電化製品
パソコン、テレビ、DVD、ムービー、ゲーム機、カーナビ、大工道具など
幅広くお取り扱いをしております。新品のお品物は、箱に目立つ傷や汚れがあるとマイナス査定となる場合があります。
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大型家電、型式の古いお品物はお断りする場合があります。
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カメラ
デジタルカメラ、フィルムカメラ、レンズなど
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使用されていたお品物は、フィルムやメモリーカード等の取り忘れに注意をして下さい。
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楽器
アコースティックギター、エレキギター、管楽器、アンプなど
保証書やケースがあればお持ち下さい。使用頻度が多く、程度の悪いお品物はお断りする場合があります。
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着物
袷(色留袖・振袖・訪問着)、袋帯・名古屋帯、大島紬、都喜衛門、単衣、道行など
保存状態が悪く、シミや色焼け、カビがあるものはお値段がつきません。
大島紬・結城紬は反物のときに付いていたラベルや端切れも一緒にお持ち下さい。
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アパレル・靴
ブランドアパレル、ブランド靴など
デザインが新しく、程度の良いものでないとお値段がつきません。また靴は未使用のものでないとお値段にならない場合があります。 ご購入時のタグや箱などがあれば一緒にお持ちください。
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絵画・骨董・食器・アンティーク
かなり有名な作家の作品でないとお値段がつきません。 品物によって、お預かりして美術専門家の鑑定を必要とするためお時間がかかる場合があります。 鑑定書やご購入の際の証明書があれば一緒にお持ちください。
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お取り扱いできないお品物
以下のお品物は当店ではお取り扱いの難しい品物となります。
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偽物ブランド品、中古の生活家電、美容機器、プリンターなど、毛皮製品、中古の自転車、オートバイ・自動車などの乗り物、生き物、危険物、刀剣などの武器、家具・仏壇など、大型の楽器、食べ物
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ANTOINE PREZIUSO(アントワーヌ・プレジウソ)
スイス時計学校を優秀な成績で卒業、パテック・フィリップ社でアンティーク時計の修復に従事、技術を磨く。
その後、時計のオークションで有名なアンティコルム社を経て、1993年に独立時計師の道を歩き始めた。記念すべき第1号モデルは「シエナ」。
その後もエロティックなオートマタやトゥールビヨンなど、創造性豊かな複雑時計を作り、名声を高めている。
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AUDEMARS PIGUET(オーデマ・ピゲ)
1875年、時計師のジュール・ルイ・オーデマが、幼少の頃からの友人で時計仕上げ職人のエドワード・オーギュスト・ピゲに仕事を依頼したことから、複雑時計の名門、オーデマ・ピゲの歴史は始まった。
創業当時、すでにオーデマは時計工房を開設しており、ピゲは独立をしたばかり、互いに時計への情熱を共感したことで共同で複雑時計の開発に取り組むことになる。
1882年に「オーデマ・ピゲ」を商標登録、時計工房「マニュファクトリー」を創設する。
創業当初から注目を浴び、1889年にスプリット・セコンド・クロノグラフ、永久カレンダーなどを備えた超複雑懐中時計「グラン・コンプリカシオン」を発表。
1894年には世界最小の懐中時計も開発した。
20世紀に入ると、第一次世界大戦の影響で市場が縮小。
さらに1918年にオーデマが、翌年にピゲが亡くなる。
その後も後継者が独創的な時計を世に送り出していった。
1972年、スポーツラインの「ロイヤル・オーク」を発表。
1986年に世界で初めて腕時計型のトゥール・ビヨン、
1996年には「グラン・コンプリカシオン」機能を組み込んだ腕時計、
2000年には永久カレンダーに加え、均等差、日の出、日の入り時刻を表記する複雑時計を発表した。
2005年に「ロイヤル・オーク」をリニューアル、
その後もF1レーサーのR・バリチェロやシャキールオニールコラボレートするなど次々に新作を発表している。
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A.LANGE & SÖHNE (A. ランゲ & ゾーネ)
ドイツ時計産業の聖地、ザクセン州のグラスヒュッテ。
ドレスデンの宮廷時計職人の下で修行し、フランス、イギリス、スイスで時計技術を身に付けた創業者のアドルフ・ランゲが、当時のエルツ山地の貧困さに驚愕し、1845年、同地に時計工房を開いたことから始まる。
彼はまず国から融資を得て、15名の若者に時計職人としてのトレーニングを施すことに着手。
これをきっかけに、貧しい山村に時計産業が花開くことになる。
1863年にはクロノグラフの製造に成功。
その技術は子孫たちの手でさらに発展を遂げ、数多くの複雑時計が世に送り出されることになる。
こうして20世紀前半、名実共にドイツの時計業界トップの地位を得た同社だったが、4代目のウォルター・ランゲの時代に、悲劇が起こってしまう。
それはヨーロッパ全域を巻き込んだ第二次世界大戦の勃発であった。
爆撃により工場を破壊されたばかりでなく、ドイツの東西分割の結果、旧ドイツ圏に属することになった同社の資産は全て国有化される。
ウォルター・ランゲは西ドイツに亡命。
ランゲ・アンド・ゾーネ社の名前は歴史から消え去り、伝説のブランドとなってしまいました。
しかし、ウォルター・ランゲの時計への情熱は消え去ることはなかった。
彼はスイスの名門IWC社と接触し、復活の時を待ち続けたのである。
1989年にベルリンの壁が崩壊すると、すぐさまグラスフュッテに舞い戻り、ランゲ・アンド・ゾーネの復活に着手。
技術面ではIWCとジャガー・ルクルト、財政面ではドイツのマクマネマン財団の支援を受け、
1994年、ついに新生ランゲ・アンド・ゾーネはドレスデンの王宮で、【ランゲ1、サクソニア、トゥールビヨン「プール・ル・メリット」、そして女性向けのアーケードの4モデル含む】第1号コレクションを発表しました。
最新の技術と熟練の職人芸によって生み出される同社の時計は、世界の時計業界に衝撃を与え、再建からわずか数年で、最高級の時計メーカーとの評価を確立した。
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Alain Ailberstein(アラン・シルベスタイン)
アラン・シルベスタインの腕時計は、独創的で記号性に満ちたデザインである。
もともと建築家であり、インダストリアルデザイナーでもある彼の製品は、ファッションや車など、さまざまな分野のデザイナーが手掛けた「デザイン腕時計」の先駆ともいえる。
ドイツに興ったデザイン運動バウハウスの「機能は形態に従う」という基本理念のもと、スタインの腕時計は多くのデザイナーウォッチとは異なり機能性を追求、重視して生まれた。
彼が本格的に腕時計のデザインに乗り出したのは、1980年代半ば頃。
インテリアデザイナーとして成功を収めていた時、あるコンクールに自らデザインした時計を出展し、大絶賛されたことがきっかけになった。
初の製品であるクロノグラフから、ユニークなジャンピングアワーやスケルトンのトゥールビヨンなど、機能とデザインの両面で過去に例のないタイムピースを世に送り出してきている。
1998年からはジュエリーモデル、アーティスティックな製品、「スマイルディ」のようなユーモア溢れる製品を製造するなど、独自性を更に強めている。
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BAUME & MERCIER(ボーム・メルシエ)
16世紀半ば、スイスのジュラ山脈の麓、ボーム・レ・ダム村に国を構えたボーム家によって現在のボーム&メルシエの礎は築かれた。
ジュラ地方は当時すでに時計産業が開花しており、同一族も必然的に時計産業に関わりを持つようになる。
1830年には社名をボーム兄弟会社とし本格的な時計製造に着手。
当初はエナメル細密画を施した華やかな宝飾時計メーカーとしてのイメージが強かったが、
その後の産業革命を経て機能的な時計の製造にも参入。
それと同時に優秀な時計メーカーの証であるクロノグラフの製造にも成功した。
19世紀に半ばには販路を欧州全土へと拡大。
この時代に各国で開催された万国博覧会では計6個のメダルを獲得し、
その技術の高さを実証した。そして1919年、同社の大きな転機を迎える。
ボーム家末裔で厳格さを重んじるウィリアム・ボームと芸術を愛するビジネスマン、ボール・メルシエ。
この異なる個性が幸運にも出会い、共同の事業を行うことになり、社名をボーム&メルシエへと改称した。
これを機に精密時計に特化し、事業を展開、1950年にブレスレットウォッチという新しいジャンルを確立。
また一方で1971年にはチューニング・ホーク式のクォーツ時計を開発するなど、技術革新にも意欲をみせた。
ケープランドなど、洗練されたデザインからヨーロッパで特に人気を増し、
人気ブランドとして地位を確立、トレンドリーダーとして常に新しい時代を切り開いている。
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Bell&Ross(ベル&ロス)
1981年に創業、フランスをはじめとするヨーロッパや、アメリカなど瞬く間に確固たる地位を築いた。
2005年に新シリーズ「BR01」を発表。
機能が形を作るというコンセプトからマスターウォッチメーカーやデザイナープロユーザーが結集して開発した、
本格なミリタリーウォッチ。
裏蓋を持たないワンピース構造のケース、4本のビス留め式のベゼルで密封する特徴的な形状に加えてクロックやペンダントウォッチ、さらにはコクピットの計器版にも取り付けることができる驚くべきフレキシビリティを備え、現在もファンを増やし続けている。
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BLANCPAIN(ブランパン)
現存するメーカーでは最も古い歴史を誇るブランド。
ブランパンが時計を作り始めた18世紀後半は、まだイギリスやフランスが時計の主な産業国。
ヨーロッパ各地より逃亡してきたプロテスタントがジュネーブに、
やがてジュネーブからジュウへと移り住み、この地でも時計の製作が芽生えはじめていた。
1735年の創業以来、高品質の腕時計を製作しています。
1970年にクォーツショックで業績が悪化、操業の中止を余儀なくされる。
当時、オメガの役員であったジャン・クロード・ビバーが1982年、買収し、復興に尽力する。
「未来永劫、一切クオーツ時計は作らない」という確固とした信念を貫き通している。」
コレクションはすべて丸形ケースのみという徹底したこだわりも、ブランパンの大きな特色となっている。
ひとつの時計は、ひとりの職人によって作られ、その一つ一つの時計にはシリアルナンバーが刻印される。
ひとつひとつが丁寧につくられる為、年間生産数はわずか8,000本とごくわずか。
2007年のブランパンの大きなトピックスのひとつは、「フィフティ ファゾムス」と「エアーコマンド」を中核とする「スポーツ・コレクション」の設立された。
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BREGUET(ブレゲ)
アブラアン・ルイ・ブレゲが1775年、パリにお店を出したことから始まる。
彼は時計の歴史を2世紀早めたといわれる天才時計師である。
フランスで有名な時計職人として認められると、ゴングスプリング式のミニッツリピーター、衝撃吸収装置、らせん式のひげゼンマイ、トゥールビヨン機構など、現在にも引き継がれる重要な機構や装置を発明していった。
その集大成として製造されたのが、マリー・アントワネット王妃からの注文で生まれた超複雑懐中時計である。
複数の極める機構が組み込まれ、スケルトンのダイヤルから複雑なムーブメントが眺められる最高傑作でした。
またブレゲの功績は、機構面だけではなく意匠面でも、その多くが現代に引き継がれている。
ブレゲ針(青焼き処理が施された独自の形状の針)や、ブレゲ数字(独自な書体のインデックス)、文字盤に施されるギョーシュ彫りなどである。
1823年にブレゲが亡くなってから、経営権が数回入れ替わるものの、1970年にはショーメが買収。
このとき、ブレゲの名作時計の復興を手がけたのが、ブレゲの再来といわれた、ダニエル・ロートであった。
その後、レマニアを買収、1999年にスウォッチグループの傘下となり、経営基盤もより安定をすることになる。
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BREITLING(ブライトリング)
1884年、レオン・ブライトリングが、ジュラ山地のサンティミエ村に開いた時計工房がブライトリング社の始まり。
彼は創業当初からストップウォッチと懐中型クロノグラフの製作に情熱を傾けていました。
航空機時代の幕開けとともに、レオンもパイロットへの夢にに憧れましたが、叶うことはありませんでした。
こうしてパイロット用の小型懐中クロノグラフ製作へと尽力をし、高い評価を受けることになります。
1914年に父レオンの跡を継いだガストンは、翌15年に世界初の腕時計型クロノグラフを発表。
1923年には、スタート&ストップボタンを発案。
3代目のウィリーの時代になった1934年には、クロノグラフ針をリセットするボタンの開発に成功しました。
これはまさに現在のクロノグラフ機構の全ては、ブライトリング社によって発案されたことに起源するのです。
1936年、イギリス空軍とコクピットクロックの供給契約を結び、ブライトリングは航空業界における地位を、確実に築いていくことになるのです。
さらに1942年には、世界初となる対数目盛り付きの計算尺を装備した初代「クロノマット」を発表。
1952年には、航空計算尺によってほとんどの航空計測を可能にした「ナビタイマー」を発表。
航空時計の代名詞と称えられるまでになりました。
また、1952年にブライトリングの時計は、大空から宇宙へと向かことになります。
それが、マーキュリー計画で採用された「コスモノート」である。
1985年にはアナログとデジタルを複合表示させた「エアロスペース」を発表。
21世紀の幕開けとともに全モデル公認クロノメーター化が実現します。
ブライトリングは、今の時代においても高精度で優れた時計を追求し続けています。
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BULGARI(ブルガリ)
1857年ブルガリの創始者ソルティオ・ブルガリは、ギリシャのエピルスに代々ギリシャで銀細工師を営む家庭に誕生をしました。
1876年セルビアがトルコに宣戦布告し、バルカン戦争が勃発しバルカン半島の戦争が厳しくなると、一家は安全を求めイタリアに移住しました。
そして、ローマに移り住んだソリティア・ブルガリは1884年にシスティーナ通りに最初の店をオープンしました。
1905年、現在のブルガリの本店であるコンドッティ通り10番地に息子のコンスタンティノとジョルジョの協力でお店を移転しました。
1932年創始者ソリティオ・ブルガリが死去しました。享年75歳でした。
ソルティオ・ブルガリが死後、兄弟がコンドッティ通りにある本店を改装しました。
20世紀初頭になると、宝飾品に魅せられた兄弟は、アール・デコ、アール・ヌーヴォー、ロココといったフランスの宝飾様式を離れ、古典主義なギリシャやローマの、イタリアン・ルネッサンス、19世紀ローマ派の金細工師たちに触発されたユニークなスタイルを宝飾に取り入れた斬新なブルガリ・スタイルをコレクションで発表しました。
1970年代になると海外1号店のニューヨーク店をはじめ、パリ、ジュネーブ、モンテカルロに出店し、ブルガリは国際的に発展を遂げていきました。
1977年、有名な“ブルガリ・ブルガリ”シリーズの腕時計を発売し、その洗練されたデザインは高く評価され、時計のブランドとしても名が知られるようになりました。
その後、スイスの時計メーカーであるジラール・ペルゴ社と提携をし、腕時計の世界に参入する為にスイスにブルガリタイムを設立しました。
1984年パオロ・ブルガリがグループの会長になり、二コラ・ブルガリが副会長、二人の甥であるフランチェスコ・トラパーニが社長に就任しました。
1993年にはグリーンティーをベースにした初の香水「オ・パフメ」オーデコロンを発表し、続き1994年女性向けの香水「ブルガリ プールファム」を発売しました。
2000年になるとスイスの高級時計メーカー、ジェラルド・ジェンタ社、ダニエル・ロード社、関連製造施設を所有しているマニファクチュール・オート・オルロジュエリー社の株を100%取得し、新会社ダニエル・ロード&ジェラルド・ジェンダ オート・オルロジュリー社を設立しました。
現在では、ジュエリーや時計をはじめ、香水から様々なアイテムを発表し、総合ブランドとしての地位を確立しました。
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CARTIER(カルティエ)
カルティエは、1847年宝石細工師のルイ・フランソワ・カルティエがパリに開いたアトリエから始まりました。
カルティエが世界的に有名になるのは、孫の一人ピエールがニューヨークへ、もう一人のジャックはロンドンへ、最後のルイはパリへというように3都市を拠点に進出してからとなります。
店を構え1900年代に入ると少しずつ彼の3人の孫達によって世界的なブランドとなりました。
そして3代目当主となったルイはアール・デコ様式のジュエリーやファッション性の高い時計を作り上げ、カルティエの名声を高めることに成功しました。
1904年にはイギリス王室御用達に指定されました。
現在はピアジェなどとともにスイスのコングロマリット、リシュモングループの傘下にあります。
パリ開放を記念して販売されたタンクウォッチ(四角い形状で秒針なし)は高級腕時計の定番として知られており、またアルベルト・サントス・デュモンから飛行中でも操縦桿から手を放さないですむようにと依頼されてルイが作った腕時計は「サントス」という名前で現在でも人気が有ります。
近年まで日本では、カルティエと言えば革製品やライターのブランドと思われてきた部分があリました。
しかしこれは日本代理店となった商社が、高額商品である宝石や時計ではなく、比較的販売しやすい価格帯の革製品やライターをメインとして松坂屋名古屋店に売り場を開設したためにそのような印象が付きました。
カルティエは2007年のミャンマー反政府デモの弾圧に対する抗議として、ミャンマーの宝石原石取引を停止したことでも知られています。
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CHANEL(シャネル)
1981年に創業、フランスをはじめとするヨーロッパや、アメリカなど瞬く間に確固たる地位を築いた。
2005年に新シリーズ「BR01」を発表。
機能が形を作るというコンセプトからマスターウォッチメーカーやデザイナープロユーザーが結集して開発した、
本格なミリタリーウォッチ。
裏蓋を持たないワンピース構造のケース、4本のビス留め式のベゼルで密封する特徴的な形状に加えてクロックやペンダントウォッチ、さらにはコクピットの計器版にも取り付けることができる驚くべきフレキシビリティを備え、現在もファンを増やし続けている。
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CHAUMET(ショーメ)
ショーメはフランスで最も長い歴史を持ち、パリのヴァンドーム広場に店を構える五大ジュエラーにおいても最も長い歴史を誇るブランドになります。
マリ・エティエンヌ・ニトは、ナポレオンの乗った馬車の馬が暴れだしたのを抑えたことから、ナポレオンの信頼を得てその後ナポレオンからの依頼により王冠や宝飾品の作製を手掛けました。
そして1802年にショーメ前身のお店は、ナポレオン御用達の宝石商に指定されました。
その後、息子のフランソワ・レニョと協力しヨーロッパ全域の王侯貴族に高い評価得てロンドンにまで進出し、ビクトリア女王の御用達にもなりました。
1907年、7代目のジョセフ・ショーメの時代になり、現代の名称“ショーメ”となりました。
ショーメのジュエリーはふっくらとした丸みを持ち、柔らかな印象のものが多く、華美過ぎず斬新過ぎず品位あるジュエリーとして認知されています。
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CITIZEN(シチズン)
市民のための時計作りを信念とする社名「シチズン」。
第一次世界大戦が終結した1918年、その前身である尚工舎として産声をあげる。
設立当初から技術への情熱が熱く、技術者育成のため尚工舎時計学校を設立している。
こうして技術の鍛錬により、1924年に第一号の懐中時計が市場に登場。
そひてこの第一号懐中時計のモデル名がシチズンであった。
1930年には尚工舎を母体にシチズン時計が設立。
翌年にはシチズン初の腕時計を発表。
第二次世界大戦の冬の時代を経て、1956年には国産初の耐衝撃装置付き腕時計「パラ・ショック」が誕生。
このモデルは耐衝撃性を実証するため、京都市役所前にて30mの上空のヘリコプターからの公開落下試験を行いセンセーションを巻き起こした。
そして1970年代、機械式からクォーツ式の移行によって、大きな変貌を遂げていく。
1973年に、シチズンは初のクォーツ時計を発売、翌年にデジタル式腕時計を発表した。
その後も1976年に世界初のアラーム付きデジタル時計、太陽電池式時計、
1977年に電卓付きと次々に新技術を発表。
技術のシチズンの名は、クォーツやデジタル時計の分野で実証されていった。
また1996年にはわずかな光で発電するエコ・ドライブでエコマークの認定も受けている。
社名の通り、世界の市民に愛される時計としてシチズンは認知されている。
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COACH(コーチ)
コーチは1941年、アメリカニューヨーク・マンハッタンでマイルスとリリアンのカーン夫妻が家内製手工業の皮革小物工房としてはじまりました。
1961年に社名をゲイル社からアメリカ開拓象徴の馬確認渡すにちなみ“コーチ”に変更しました。
コーチは、皮そのものの持ち味を生かした製品開発を特徴とし、科学薬品でコーディングされておらず一つ一つ手作りで作りこまれる天然皮革は、耐久性、機能性に優れ、手作業で作られていました。
1962年コーチは映画、“王子と私”の衣装のデザインやIBMのユニフォームのデザインをした“ボニー・カシン”をデザイナーとして迎えました。
ボニー・カシンは、“カシン・キャリー”や“バゲット・バッグ”、“ダッフル・サック”と次々と人気商品を生み出し、“ドッグリーシュ”の金具や、クリップ式の金具も発案しました。
1988年には三越との提携により、初めて日本に進出しました。
その後は、同年に横浜三越店、続き日本橋三越店がオープンしました。
1996年、コーチの会長“ルー・フランクフォート”氏は、トミー・ヒルフィガーから当時若干32歳の“リード・クラッコフ”をエグゼクティブ・クリエイティブ・ディレクターとして迎え入れます。
ルー・フランクフォートはコーチのデザインやブランドイメージの統一を行い、“ライフスタイル・アクセサリー・ブランド”へと発展させました。
1998年、高品質レザーに代わる新素材を開発し、実用的で体に馴染むことを目的としたデザインを発表し、同年にはスイスの高級時計メーカー、モバード・グループとライセンス契約し、“ウォッチ・コレクション”を発売しました。
2000年になると、誰もが知る定番の“CC”柄“シグネチャー”が発表されます。
このシグネチャーのラインはコーチで最も注目されるシリーズとなり、名実共にアメリカのトップデザイナーズブランドへとなりました。
翌年の2001年にはアメリカのコーチは住友商事と合併することで、コーチ・ジャパンを設立し、三越子会社から店舗を引き継ぎました。
更に続く2002年には銀座にも日本最大のショップとしてオープンしました。
この2002年は数にして79もの店舗の展開をしています。
関西発の路面店は2003年の4月にオープンされ、その月の16日には渋谷店、25日には六本木ヒルズ店をオープンしました。
現在は、パステルカラーや新しい素材を取り入れ、スタイリッシュなデザインを発表し、アメリカを代表する老舗ブランドとして知られています。
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DOLCE &GABBANA(ドルチェ&ガッバーナ)
ドルチェ&ガッバーナは名前の通り、ミラノのファッションデザイナーのスタジオで当時22歳のドメニコ・ドルチェと、当時19歳のテファノ・ガッバーナが出会い立ち上げたブランドになります。
イタリア、シチリア島出身のドメニコ・ドルチェは生家が縫製工場を経営しその工場を手伝っていた経験があり、ヴェニス出身のステファノ・ガッバーナはグラフィックアートを学び広告代理店勤務経験のある、という経歴を持ち、互いにゲイで仲が良いとの噂も持つミステリアスな二人です。
1982年にミラノにオフィスを構えますが、当時は若い二人の才能には見向く人はいませんでした。
しかし、1985年、ミラノのファッションショーでレディースコレクションを発表すると、モード界に新しい風を吹かせたとし認められ、一躍世界中から注目されるトップデザイナーになりました。
その後、1987年にニットウェアコレクション“ル・マグル・ディ・ドルチェ&ガッバーナ”、1989年にランジェリーとビーチウェアを立て続けに発表し1990年にメンズウェアを発表しました。
1994年にはセカンドライン“D&G”を発表しまし、この時期に日本へと上陸しました。
その後はアメリカ・ニューヨークで大ブレイクし、1991年に“Woolmark Award”を受賞しました。
1992年にはレディース用のフレグランスを発表し、このフレグランスは翌年の1993年に“Best Feminine Fragrance of the Year”を受賞しました。
そして、1993年にはマドンナのワールドツアー“The Girlie Show”に1500点ものデザインを提出し、これ以来マドンナがドルチェ&ガッバーナの大ファンになったという有名な話があります。
1994年にメンズ用のフレグランスを発表し、これもまた翌年の1995年に“Best Masculine Fragrance of the Year”を受賞しました。
同年にDOLUCE&GABBANA(ドルチェ&ガッバーナ)のお手軽な価格の若者向けブランドD&Gをセカンドラインとして発表しました。
1999年にはホイットニー・ヒューストンのワールドツアーを独占し、2000年にはマドンナのアルバムの衣装を手掛けました。
現在では、イタリアで既にGUCCIやPRADAと並び称されるほどに成長しており、今後の世界の中心的なブランドになるブランドとも言われています。
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FENDDI(フェンディ)
1925年、フェンディ夫妻がローマ プレヴィシート通りに、毛皮の工房も併設した革製品のお店をだしたのが始まりになります。
1946年フェンディ夫妻の5人の娘中、長女のパオラが仕事を始めたのを機に、アンナ、フランカ、カルラ、アルダが次々と事業に携わりフェンディというブランドを一家で支えるようになります。
姉妹はピアーヴェ通りにお店をオープンし、アメリカ進出後ハリウッドで流行っていた毛皮のコートを販売し、有名になりました。
1965年当時27歳のデザイナーで若くしてその才能がパリで話題となっていた、カール・ラガーフェルドを迎え入れたことが、フェンディの大ブランドへと躍進するきっかけとなりました。
カール・ラガーフェルドがデザイナーとして就任した翌年の1966年には、硬く重い印象のあった毛皮を、明るくて軽く柔らかいものとして発表したコレクションは、毛皮の常識を覆したとされ、大変大きな反響がありました。
また毛皮だけでなく、染色加工された革も人気を呼び毛皮と並びバッグは人気を誇るアイテムになりました。
1969年、現在フェンディのマークとして知られている“ズッカ柄”は、カール・ラガーフェルドのアイデアでコートの裏生地に用いられていた“ダブルF”のマークをバッグのデザインに用いたことから広く知れ渡ることになりました。
1977年からは、プレタポルテポルテコレクションも始まり、世界的に知られるブランドとしてミラノコレクションに参加しています。
1985ローマ現代美術館でフェンディ60周年とカール・ラガーフェルドのデザイナー就任20周年を記念して展覧会を開催し、フェンディ初の香水を発表しました。
そして1997年には、次女アンナの娘シルビア・ベントゥリーニがデザインしたバッグ“バゲット”が発表され世界的なヒットとなりました。
また、2005年にはがま口ポケット付きのコロンとしたフォルムのバッグ“スパイバッグ”が発表され、バゲットに続き大変人気を博しました。
2001年になるとフェンディは経営難となり、ルイ・ヴィトンやクリスチャン・ディオールを擁するLVMHに買収され、LVHMグループの一員になりました。
現在フェンディは上質な毛皮や革製品を生み出すブランドとして知られ、多くの著名人に愛用されています。
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F.P.JOURNE(F.P.ジュルヌ)
際立った時計への技術は「ブレゲの再来」とも言われる。。
フランソワ・ポール・ジュルヌもそうした時計職人の一人である。
スイスとパリの時計学校で4年間、時計技術を学び、
その後の8年間をアンテイークウォッチの修復の仕事に就く。
そして1985年に自らの時計工房を設立。
彼の天才的な仕事ぶりはすぐに大手メーカーの目に留まるようになり、友人達と会社を設立し、
有名ブランドの複雑時計の製作に参加をした。
そして1999年新会社、Montres Journe SAを設立し、本格的な時計の製造、販売を行うようになりました。
最初に発表したモデルは、ヂュアルタイムモデルの「レゾナンス」は、
2個の異なるムーブメントを備えた共振システムを搭載。
これは2つのテンプを同じ振動数にシンクロさせて、
それぞれの固有の周波数の平均値で一定の振動を続けるようになり、
常に一方の歩度を補正しあう超絶の機構である。2001年にはハリーウインストンとコラボして、
トゥールビヨン「オーパス・ワン」を発表しました。
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FRANCK MULLER(フランク・ミュラー)
1992年に自らのブランドを設立、わずか数年でスーパーウォッチブランドとなった。
ジュネーブの時計学校では、本来3年かかる技術を1年で習修得して、創設以来もっても優秀な成績で卒業。
多くのスカウトを断り、独立時計師としての道を進む。
当初はアンティーク・ウォッチの修復を手掛け、その分野でも世界的な名声を手に入れた。
1986年にオリジナル・ウォッチを製作、フリー・オシレーション(自由振動)という独自な機構を組み込んだトゥール・ビヨンであった。
1987年にはミニッツ・リピーター付きトゥールビヨン、
1989年には更に永久カレンダーを組み込むなど、
複雑系の独立時計師としても認知され、時計業界の話題は彼の新作時計に注目が注がれるようになっていく。
その後も、ダブル・ジャンピングアワー、レトログラード・セコンド、ダブルフェイス・クロノグラフ、リピーター作動インジケーターなど、独自の機構を次々に発表、時計界の頂点へと上り詰める。
優れたデザイナーでもあるフランク・ミュラーは、3次元曲線のトノーケースに、アールデコの代表的なデザイン数字を組み込んだエレガントさを加味するクラシックなデザインは、彼の代名詞となった。
ヴェガス、クレイジーアワーにも代表されるように遊び心も忘れない。
若手の育成にも力を注ぎ、1995年にジュネーブ郊外に新工房となるウォッチランドを設立。
世界中の時計ファンの心を釘付けにする、奇才の天才時計師の躍進は続く。
G
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GARRARD(ガラード)
1735年にロンドンの商業の中心地であったヘイ・マーケットに、高名な銀細工師であったジョージ・ウィックスが作った会社を1792年にロバート・ガラードの手に渡り始まったのが“GARRARD”です。
1802年にはガラード一族が支配権を握りました。
1842年になると英国王室の御用達にランデル・アンドブリッジを継ぐ形で任命され、以後英国王室やその周りの貴族に信頼を得て、今も揺るぎ無い地位を確立しています。
1843年には、ヴィクトリア女王より英国王室に仕える王冠宝飾職人“クラウン・ジュエラー”の称号を授与され、以降、歴代の英国国王の王冠やティアラの制作を一手に引き受けてきました。
最近の作品ではチャールズ皇太子がダイアナ妃に送った婚約指輪等が一般的に有名です。
ガラードが作るジュエリーは、限定された顧客の要望を強く反映させたものであったがその反面顧客が減少し、普通の人々がジュエリーを買うときにガラードの名前が頭に浮かぶことがほとんど無いと言われるほど、ガラードは特定の階層に向けてジュエリーを作る優れたジュエリーブランドとされています。
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GEORG JENSEN(ジョージ ジェンセン)
北欧を代表するラグジュアリーブランド、ジョージ・ジェンセンは1904年にコペンハーゲンのブレドゲード街36番地にジョージ・ジェンセン銀工房を開いたことから始まります。
ジョージ・ジェンセンの銀製のジュエリーは出だしより好評価を得て、1909年には最初の海外店がベルリンに開かれ、次いでロンドン・パリ・バルセロナと海外での出店での出店が続きました。
1905年に入ると銀のジュエリーだけでなく、銀のホロウェアを取扱い事業をさらに拡大しました。
しかし、業務の拡大は資金不足とマネジメントの変更を招き、1916年には株式会社に組織変更をし、1917年から翌年には外部の資本を持った人間が経営に参加しました。
外部の人間が経営に関わる前のジョージ・ジェンセンのジュエリーには高価な宝石類は使われておらず、ムーンストーンやラピスラズリなどの安価な石が使われ、また銀を研磨するバフは一切かけず、アールヌーボーの影響を受けていました。
第二次世界大戦後になると“スカンジナビアン・デザインの父”とされるヘニング・コッペルが参加し柔らかなシルエットのホロウェアやジュエリーを次々に作りだしました。
ジェンセンは自分自身がクリエーターでありながら、才能のある他の作家たちを登用し仕事を与え、自分の作風と違うものでも積極的に自社の作品に取り込み、見事な個性をもった名だたるデザイナーを輩出しました。
その後、ジェンセン社は資金上の問題から陶磁器のメーカー、ロイヤル・コペンハーゲン社と提携しました。
ジョージ・ジェンセンは優れたデザイナーというよりも、優秀な職人が作った企業と今日ではいわれています。
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GERALD GENTA(ジャラルド・ジェンタ)
パテック・フィリップのノーチラス、カルティエのパシャ、
これらのモデルはジャラルド・ジェンタによって生み出された。
15歳からジュエラーとして修行を始め、23歳からデザイナーとして活躍。
1969年に自らのブランド、ジャラルド・ジェンタを設立。
1980年代積極的に複雑時計の製作に取り組んだ。
1996年にジャンピングアワーとレトログラードを合わせたレトロシリーズが登場し、
ジェラルド・ジェンタの代表的なモデルとなった。
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GIMEL(ギメル)
ギメルは兵庫県芦屋市に住む日本人女性の穐原かおるが1974年に設立した企業です。
穐原が1974年に創業した会社は、今のようなデザインジュエリーを売る会社ではありませんでした。
当時では珍しい、ダイヤモンドを欧米から日本に輸入する会社としてスタートしました。
穐原かおるは、日本で最初にアメリカのGIAと呼ばれる教育機関で宝石学の教育を受け、1984年には大阪の心斎橋にデザイン・ジュエリーを作り売りする会社を設立しました。
ギメルのジュエリーは自然を美しく表現することで知られています。
また現在では、名古屋松坂屋・心斎橋大丸・小倉井筒屋の百貨店のみでの取り扱いとなっています。
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GRAFF(グラフ)
ローレンス・グラフが20世紀後半にロンドンで創業した宝石店になります。
グラフはロシア系移民の子供として生まれ正規の教育を受けずにジュエリー界を切り開いたことでも有名です。
1962年、24歳の時に小さいながらお店を持ち、1966年にはダイヤモンド・インターナショナル賞を受賞しました。
グラフが大をなすきっかけとなったのは、英国での商売ではなくシンガポールでの商売でした。
グラフはシンガポールを中心とした地域の超富裕層の富豪たちとの取引に成功し、特にブルネイ国王一家との取引が大きなきっかけとなりました。
1973年グラフ・ダイヤモンド社を設立し、翌年にはロンドンのナイツブリッジにお店を開き、サウジアラビアの王族など多くの中東の石油王たちを新しい客として、大きな宝石の販売を続けました。
後にグラフは大きなダイヤモンドの原石を買い自分でカットすることにも取り組み1998年にはダイヤモンドの原石を入手する為に、南アフリカの会社を買取りました。
グラフの優れた点は世のお金の流れを読みドバイ、バーレーン、モスクワへと次々に出店していったことと、他の宝石店のようにブティクラインとして安物のジュエリーを売ることは無く、イエローダイヤを中心とした平均単価で1,000万を越えるような高価なジュエリーのみを販売し、ある種の確立された資産性を持ったことにあります。
現在のジュエリー業界からは珍しく、値下がりが考えられない宝石店と言われています。
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GRAHAM(グラハム)
グラハムは17世紀末に英国時計産業の父と称されるトマス・トンビオンが基礎を築き、その弟子であったジョージ・グラハムによって確立されたブランドです。
グラハムはクロノグラフの生みの親であり、直進脱進機(グラハム脱進機)、水銀補正振り子(グラハム振り子)、シリンダー脱進機などの発明者としても知られている。
この英国伝統のブランドが、2001年、エリック・E・ロトが興じたブリティッシュマスター社によって現代に復活。
そのコレクションは、偉大な時計製作マスター、ジョージ・グラハムに敬意を表し、全ての製品がクロノグラフに限定されている。
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GUCCI(グッチ)
グッチはブランドの元祖と呼ばれるスーパーブランドである。
グッチの創設者グッチオ・グッチは貧困の中に生まれた。
17歳でイタリアを離れ世界の中心のロンドンで働き、経験と資金を元に1922年にフィレンツェでお店を開いた。
お店は家族の名前である「GUCCI」の名前を取り、品格あるデザインで評判となり、人気店になった。
また世界で初めて、品質保証のためにデザイナーの名前を商品に入れたことでも知られる。
その後、グッチオの6人の子供達のうち、商才に長けていた三男ののアルドがグッチオを継ぐことになる。
ローマやニューヨークなど海外にも出店し、豊かさの象徴として店は大繁盛。
五男の俳優のルドフォが、ハリウッド女優にグッチ製品を薦めたこともあり、セレブの間でブームとなる。
こうして1960年代~1970年代に全盛期をむかえ、1972年には香水専門の会社「グッチ・パルファム」社を設立し、スーパーブランドに成長を遂げた。
しかし、アルドの息子の世代が経営に参加するようになると、一族に衝突が起こるようになる。
1982年の役員会議の席でアルドがパオロを殴りつけたことにより、一族の亀裂が決定的なものとなる。
以後、一族内で告訴合戦が繰り広げられ、81歳のアルドは投獄。
パオロは一族から追放されてしまう。
2代目パオロ・グッチの死去に伴い、その甥マウリツィオ・グッチがパオロの子供たちに連衡策を働きかけ、結果的に株式を独占した。
しかしマウリツィオが妻の命を受けたマフィアによって暗殺されると、株式は宙に浮き、結局アラブ資本に買い取られてグッチ家は経営から締め出されたという皮肉な結果となっている。
現在そのスーパーブランドでありイタリア伝統のファミリービジネスを始まりとするグッチにはグッチォ・グッチの血族を継ぐ経営陣が一人も居ない。
それは、グッチの経営権をめぐり同族同士の骨肉の争いからグッチォ一家は崩壊の一途を辿った事に起因する。
一族が手を引き完全な株式会社となったグッチは、トム・フォードとドメニコ・デ・ソーレの力で見事に蘇る。
現在はフランスの大企業の傘下に収まっている。
H
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HARRY WINSTON(ハリー ウィンストン)
1920年、アメリカ人のハリー・ウィンストンにより創業されました。
彼は、ロサンゼルスの宝石時計商の息子として生まれ、幼い頃から宝石の分野に秀でた才能を持っていました。
1920年、ハリー・ウィンストンはニューヨークの5番街にダイヤモンドを扱う、プレミエール・ダイヤモンド社を設立しました。しかし、ダイヤモンド業界は新参者が入る隙がなかったので1925年前後には資産性を持つ宝石だけに専念するようになりました。
1919年になると第一次世界大戦が終わり、多くの富豪達が大きな宝石を手放しそれをハリー・ウィンストンは最新の宝石学の知識を応用し新しく研磨し直すことで、現代の好みに合った宝石に作り直しました。
ハリー・ウィンストンにとっては大きな宝石こそ価値があり、二代目のロナルド・ウィンストンは“1カラット以下のダイヤモンドはメレー”という言葉まで残しています。
1958年には45.52カラットの世界最大の青いダイアを手にいれ、アメリカ国民の為に、ワシントンD.Cのスミソニアン国立自然史博物館に寄贈しました。
その後も1963年に127.01カラットの“ポルチェギーズ・ダイヤモンド”を、1964年に253.7カラットの世界最大級のダイヤモンドの原石の完璧な結晶体“オッペンハイマー”を同博物館に寄贈するなどの社会貢献を行いました。
現在ハリーウィンストンは、極上の宝石のみを取り扱うことで知られ世界中の王侯貴族やセレブリティを顧客としています。
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HERMES(エルメス)
1837年、エルメスはティエリ・エルメスがパリで創業しました。
当初は馬具を専門とした工房で、1867年にはパリ万博の馬具部門銀賞を授与されました。
高い技術から生み出される製品は、ナポレオン3世やロシア皇帝など、多くの貴族御用達の製品になりました。
また、二代目とし息子のシャルル・エミール・エルメス(1831~1916)が工房を継ぎ移転し、
1878年の第3回パリ万博で金賞を獲得しました。
翌年には、現在の本店所在地であるフォーブル・サントノレ24番地に工房を移し、鞍の製造・卸しに加えて小売りも始めましたが、馬車に変わる交通手段として自動車が出現してしまい、後に3代目を継ぐ息子のエミール・モーリス・エルメス(1871~1951)が商品の多角化に着手しました。
その際、エミールは兄のアドルフと共に商号を「エルメス兄弟社」に改めました。
1903年エミールは札入れ、婦人用財布、財布、バッグ等の製造を開始し、1920年にはファスナーの特許を申請し初めてファスナーをバッグや洋服に用いました。
1922年になるとエミールは会社の全所有権を買取り、社名を「エルメス」に戻し、翌年には後のボリードとなる“ブガッティ”を発表しました。
そして1927年には初めて時計を発表し続き1935年に後のケリーとなる“サック・ア・クロア”を発表しました。
エルメスのブランドカラーであるオレンジ色は1945年、四輪馬車と従者の商標を登録、オレンジ色の包装紙を採用したことから始まります。
オレンジの包装紙は、第二次世界大戦中に資材が用意出来ず仕方なく余った紙を使ったのがきっかけでした。
1951年ロベール・デュマ・エルメスが四代目に就任し、このロベール・デュマ・エルメスによってエルメスの有名な鮮やかな発色と遊び心あふれるスカーフやネクタイを誕生させました。
1978年には五代目とし現在の当主、ジャン・ルイ・デュマが就任し、エヴリンを発表しました。
1981年クリッパー,1984年に有名なバーキンを発表、さらにテーブルウェア分野にも進出しました。
そして1998年代になるとフールトゥやエールバッグなどの現在でも幅広い世代に人気のあるカジュアルなバッグが登場しました。
2001年に銀座に有名な“メゾン・エルメス”をオープンさせると、2004年にはデザイナーがマルタン・マルジェラからジャンポール・ゴルチエに代わり現高級ブランドエルメスの今に至ります。
I
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International Watch Company(IWC)
ボストンの時計職人フロレンタイン・アリオスト・ジョーンズによりIWCの歴史は始まる。
アメリカ人であるジョーンズがあえてスイスで時計製造を始めたきっかけは、アメリカで主流となっていた機械自動化の製造技術を、伝統的な手工業が中心のスイスの時計産業に導入し、より完成度の高い時計製造を目指すというものだった。
そして、ゆくゆくはアメリカへの輸出も視野にいれていた。
そのためニューヨークに販売会社を設立し、近代的な工場生産が必要とする大規模な発電施設を備えたシャフハウゼンを選んだのであった。
しかし、職人手工業とテクノロジーを一体化するに時期尚早であった。
スイス時計メーカーとして地位を固めたのは、20世紀の半ばになってからのこと。
本格的な航空時代を迎え、パイロットウォッチには高い耐久性と精度が求められる。
第二次世界大戦中、イギリス、ドイツ、オーストリアでも軍に正式採用された。
IWCは現在、スイスメーカーで唯一、スイスメーカー公認の万能時計職人(オレロジェ・コンプレ)の養成学校を所有し、次世代の担い手を養成している。
一方では、コンピューター技術を駆使した最新生産体制を誇り、まさに創業者ジョーンズが描いた夢が、ここに結実している。
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HERMES(エルメス)
ボストンの時計職人フロレンタイン・アリオスト・ジョーンズによりIWCの歴史は始まる。
アメリカ人であるジョーンズがあえてスイスで時計製造を始めたきっかけは、アメリカで主流となっていた機械自動化の製造技術を、伝統的な手工業が中心のスイスの時計産業に導入し、より完成度の高い時計製造を目指すというものだった。
そして、ゆくゆくはアメリカへの輸出も視野にいれていた。
そのためニューヨークに販売会社を設立し、近代的な工場生産が必要とする大規模な発電施設を備えたシャフハウゼンを選んだのであった。
しかし、職人手工業とテクノロジーを一体化するに時期尚早であった。
スイス時計メーカーとして地位を固めたのは、20世紀の半ばになってからのこと。
本格的な航空時代を迎え、パイロットウォッチには高い耐久性と精度が求められる。
第二次世界大戦中、イギリス、ドイツ、オーストリアでも軍に正式採用された。
IWCは現在、スイスメーカーで唯一、スイスメーカー公認の万能時計職人(オレロジェ・コンプレ)の養成学校を所有し、次世代の担い手を養成している。
一方では、コンピューター技術を駆使した最新生産体制を誇り、まさに創業者ジョーンズが描いた夢が、ここに結実している。
J
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JAEGER LECOULTRE(ジャガー・ルクルト)
創業者アントワーヌ・ルクルトによって、1833年にスイスのル・サンティエに創立した小さな時計部品製造会社から、ジャガー・ツクルトの歴史は始る。
創業当時のルクルトは、時計職人ではなく、時計作りのための工作機械の設計を専門とするエンジニア。
製造工程の開発に専念する中、次第に部品だけではなく、精密な主部品を手掛けるようになる。
そして、1903年、クロノメーターの製造をとおして協力関係にあったエドモンド・ジャガーと正式な業務提携、
その社名をジャガー・ルクルトと改め、ムーブメント供給メーカーとしてその名が知られるようになっていった。
1931年、同社の機軸モデルとなるレベルソが誕生。
この時計は当時、貴族の間で流行していたポロ競技用に開発された時計であった。
その後も素材にステンレス・スチールを採用したりと画期的なアイデアを生み出していった。
レクタンギュラー(長方形)のケースに搭載される角型のムーブメントは現在に至るまで世界で唯一であり、
専用かつオリジナルにこだわって製造をしている。
時計王国スイスにあって、時計製造の全工程を自社内で行う会社は数少ない。
その代表的なブランドといえるのがジャガー・ルクルトなのだ。
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JAQUET DROZ(ジャケ・ドロー)
18世紀、ジャケ・ドローは天才時計師の名を欲しいままに、自動人形や人造人間の創作に才能を発揮する。
細工を施したケースにからくりを備えた時計は、時のスペイン国王を魅了、スペイン王室ご用達の時計師となる。
当時流行していたオートマトン(機械式からくり)を手掛け、
1774年にはロンドンを拠点に時計作りに専念、世界の王侯貴族にその名は知れ渡った。
しかし、19世紀半ばには、後継者がいないまま休眠。
時計史に名を刻むブランドの復活にかけたのは、スォッチグループであった。
ジャケ・ドローの株の大半は世界中の投資家のもとにあったが、
2000年、スォッチグループが買戻し、再びひとつにまとめられた。
新しい時を刻み始めた、新生ジャケ・ドローから目が離せない。
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JACOB & CO(ジェイコブ)
ハリウッドスターやスポーツ選手、ミュージシャン、お洒落な著名人を虜にするジェイコブ。
イングランド代表のサッカー選手、ベッカムもこの時計を愛用している。
1981年、ジェイコブはジュエリーブランドとして誕生した。
ユニークなダイヤモンドジュエリーデザインを手掛けてきたジェイコブは、新たな境地へ挑む。
そうして生まれたのが、「ファイブタイムゾーン・ウォッチ」であった。
カスタム・ジュエリーを得意としているジェイコブだけあって、
オーナーの気分に合わせ、ベゼルやカラーストラップを自由に交換することができる。
セレブを魅了する遊び心のある、とってもファッショナブルなウォッチである。
K
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KEVIN COATES(ケヴィン コーツ)
1950年イギリスで奇才と言われ、特異な経歴を持つジュエリー作家ケヴィン・コーツが誕生しました。
ケヴィン・コーツの作品造りが何年からなのかを決めるの難しいといわれます。
何故ならば、彼は“好きな時に好きな物を好きなだけ作りたい“という意思に従い作品作りに取り組むからです。
しいてスタートの時期を定めるとしたら、少し真面目に作品作りに取り掛かり始めた1978年と言われています。
ケヴィン・コーツは7歳の時からヴァイオリンを習い、16歳から18歳にかけてオーストラリアに渡って音楽の勉強をし、イギリスに帰国後1973年から1976年にかけて王立工芸高校でジュエリーを学び、平行して古い楽器の研究やまたそういった楽器を使っての演奏活動に励み、29歳の時に“楽器の設計における数学の応用”という論文で博士号を取るなどのどちらが本業なのか本人さえも分からない天才的な奇人と言われています。
ケヴィン・コーツが作るジュエリーは、全て西欧の神話、文学、音楽、にデザインの基礎が置かれており、金銀プラチナは当然とし、価値ではなくフォルムや色で素材を選び従来のジュエリーには見られない作品を作りだしました。このことより、21世紀のラリックと呼ばれる程の作家になります。
また、彼は数年に一回というペースでしか作品の販売はしない為、ジュエリーに詳しい人でも中々目にすることは出来ず、その大胆かつ奇抜でありながら上品なデザインは、間違いなく後のアンティーク作品といわれています。
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KOOS(コース)
コースは2001年にオランダ人と日本人のチームで設立され、ナチュラルなファッションを支持する女性に大変な人気を誇ります。
コース(KOOS)の名前の由来はオランダ語で、“選択する”という意味を持ち、その名の由来通り自社の中で製品を作るにあたり天然素材以外は使わず、デザインまでも追求、選択されたお品物になります。
またコース品物は自然の風合いを感じながら職人の手作り感を残して温かみのあるデザインを生み出していることでナチュラル派の女性に人気高いブランドになります。
コースと言えば代表的なアイテムとしてブーツが取り上げられています。
流行のペタンコカジュアルブーツの原点のモデルといっても過言ではないでしょう。
L
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LOEWE(ロエベ)
ロエベは1846年、ドイツ人のエンリケ・ロエベ・ロスバーグがスペインのマドリードに革製品店を開業したことから始まります。
1890年に店舗に併設したアトリエを構え、革製品で仔羊皮を独自の手法でなめしたナッパ素材を採用し、品質検査を行いそれをパスした僅か3%を使用するというこだわりを持ち王侯貴族を主な顧客としていました。
1905年に入ると、2代目のエンリケ・ロエベ・ヒントンがアルファンソ13世から王室御用達の名誉を与えられました。
1965年、4代目エンリケ・ロエベ・リンチがプレタポルテをスタートし、1970年代に初の香水エル・デ・ロエベを発表しました。
1975年に誕生したバッグ“アマゾナ”は現在でも人気ガある定番のお品物になります。
1985年に入るとルイ・ヴィトン社と提携を結び、1996年にはLVMHの傘下に入りました。
1997年にはナルシソ・ロドリゲスがレディス・プレタポルテのデザインディレクターに就任。
その後、1998年~1999年の秋冬コレクションから2002年春夏コレクションまで、ナルシソ・ロドリゲスがプレタポルテのデザインを担当したが、売り上げが伸びなかった為に解任となりました。
2002年~2003年の秋冬コレクションからは、ホセ・エンリケ・オナ・セルファがロエベの新デザイナーに就任されました。
ホセ・エンリケ・オナ・セルファの情熱的デザインは注目され、2004年になると日本でも表参道に路面店がオープンされました。
2007年には金具を一切使わずに、ラムスキンをなめした柔らかな皮のみを使用したとても軽いバッグ“ナッパ・アイレ”を発表しました。
2008年の1月になると新しくアーティスティック・ディレクターにスチュワート・ビバーズが就任しました。
スチュワート・ビバーズは、就任後アクセサリーだけでなくプレタポルテや、全世界120店の統一イメージなどを含むロエベのクリエイティブ面のすべてを担当しました。
2009年に入るとロエベはスペイン・ポルトガル・英国・フランスでオンライン・ブティックを開始しました。
現在ロエベはスペイン王室御用達となっており、良質の皮を用いることと、Lの文字を4つ組み合わせたロゴが有名です。
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LOUIS VITTON(ルイ ヴィトン)
1821年、スイスとの国境に近いジュラ山脈アンシェイ村で12人兄弟の真ん中の子として初代ルイ・ヴィトンは誕生しました。家業は粉屋でした。
1835年、14歳になったルイ・ヴィトンは、養母との折り合いが悪くなり、わずかなお金を持って家出し、パリに向けて400キロの道のりを歩き始めます。これがヴィトンの歴史の栄光の第1歩でした。
1837年、家を出てから2年間、働きながら旅を続けてようやくパリにたどり着いた少年ルイは、オペラ座に近いカプシーヌ大通りにあった荷造り用木箱製造兼荷造り職人の見習いとなり、働き始めました。
1854年、充分に経験を積んだのちに、カプシーヌ通り4番地に世界最初の旅行鞄のアトリエ「ルイ・ヴィトン」を設立します。独立と同時に、エミリーと結婚し3年後の1857年には息子のジョルジュ・ヴィトンが生まれました。
常に時代の先を見ることにたけていた彼は、輸送機関の発達に注目、従来の蓋の丸いトランクから、積み上げることが簡単な平らな蓋を持つトランクを考案します。革よりも軽い防水加工を施したグレーの無地コットン素材「グリ・トリアノン・キャンバス」を張って作ったトランクは大評判になります。
1857年、隣りの3番地も借りて店を拡張したけれど間に合わず、ロシェール通りにもアトリエを設けましたがそれでも追いつけず、1860年アニエール市の現在地に工場を移し、ルイ・ヴィトン家の住まいもここに構えました。
1867年、パリ万国博覧会でトランクが銅メダルを受賞しました。
1880年、ジョルジュが2代目を引き継ぎました。
1885年、世界進出の第一歩、ロンドン店をオープン。
1888年、世界で初めての商標登録「ダミエ・キャンバス」を発表しました。これは、「グリ・トリアノン・キャンバス」のコピーがすぐに出回るようになり、1872年にベージュに赤の縞模様の「レイエ・キャンバス」を発表するも、またたくまにコピー商品が出回り、業をにやしたルイ・ヴィトンが市松模様に自分自身の名 前を入れたパターンを作り出したものです。ダミエは1996年にバッグと小物で復活しています。
1890年、ジョルジュが5枚羽の鍵を発明、特許を取得します。
1892年、初代ルイ・ヴィトン死去しました。
1894年、ジョルジュの著書「始源から今日までの旅行」という歴史書が発表されます。ベトナムのトンキンでアジアで初めてルイ・ヴィトン製品が発表されます。
1896年、2代目ジョルジュは、模倣防止のため、初代の名前のイニシャルであるLとV、星と花をモチーフにした複雑な幾何学模様である「モノグラム・キャンバス」を開発、発表しました。
1906年、「ドライバーズ・バッグ」と飛行機用トランクを発表しました。
1911年、4代目アンリ・ルイ・ヴィトン誕生しました。
1914年、パリのシャンゼリゼ通り70番地に店舗を移転しました。
1925年、ココ・シャネルの依頼により「アルマ」を制作しました。
1932年、ワインやシャンパンを持ち運ぶためのバグ「ノエ」を発表しました。
1936年、2代目ジョルジュ死去しました。
1951年、5代目パトリック・ルイ・ヴィトン誕生しました。
1954年、創立100周年を迎え、本店をパリのマルソー通り78番地に移しました。
1959年、3代目ガストンは、現在のモノグラムの素材であるソフトキャンバスを開発し発表しました。
1970年、3代目ガストン・ルイ・ヴィトンが死去しました。
1978年、ルイ・ヴィトン日本支店が誕生しました。
1981年、日本法人“ルイ・ヴィトン・ジャパン株式会社”が設立し銀座に、日本直営店1号店がオープンしました。
1983年、ヨットレース「ルイ・ヴィトン・カップ」がスタートしました。
1985年、麦の穂をイメージした牛革に型押し加工したエピ・ラインが誕生しました。
1987年、洋酒の老舗として知られている、モエ・ヘネシー社と合併し、“LVMH=モエ・へネシー・ルイ・ヴィトン・グループ”が誕生しました。
1993年、タイガ・ラインが誕生しました。
1996年、モノグラム・キャンバス誕生100周年を記念して「ダミエ」を限定発表し大きな話題を呼びました。
1997年、ニューヨークのデザイナー、マーク・ジェイコブスがディレクターに起用され、洋服の分野に進出します。
同年にモノグラム・ヴェルニも発表しました。エナメル加工のカーフが話題になりました。フランスで開催されたワールド・カップ・サッカーの限定サッカーボールを限定発売。
1999年、モノグラム・ミニが誕生しました。
2000年、ダミエ・ソバージュ、モノグラム・グラセが誕生しました。
2001年、グラフィティ・ラインが誕生し、初めてのジュエリーを発表しました。マーク・ジェイコブズの契約の5年間延長を発表。
2002年、コント・ドゥ・フェシリーズが登場し、同年に表参道店をオープンしました。2004年、ニューヨーク5番街に世界最大級のルイ・ヴィトンブティックがオープンしました。
現在はラインの充実さと、年齢、性別を問わず使用できる商品や、毎毎シーズン発表される新しいコレクションで多くの人々の注目を集めています。
M
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MIKIMOTO(ミキモト)
ミキモトは、日本人御木本幸吉により1893年に発明された半円の養殖真珠とそのジュエリー販売を行う為に1899年の3月に銀座に創業された宝石店です。
1905年に入るとついに真円真珠の発明にも成功し、それと同時に真円を使ったジュエリーを作る為の技術に力を注ぎました。
1907年ミキモトは日本で最初とも言うべき本格的なジュエリー製造工場を作り、海外から取り入れた技術を日本に広めました。
1913年には初の海外支店を持ち、翌年の1914年には石垣島に黒蝶真珠の養殖場を開設しました。
1922年に海外の南洋パラオ島に養殖場を開設し1924年に宮内省御用達となりました。
1930年、ミキモトの創始者御木本幸吉が、日本の10大発明家として宮中に招かれました。
またその後、粗悪真珠を神戸の商工会議所前で焼却しミキモトの真珠に対する拘りを見せました。
ミキモトは日本の真珠をアピールする為に、ワシントン大統領の生家、五重の塔、自由の鐘などのアトラクションピースを製造、展示し、世界に向けての見事な広報活動を行いました。
戦後になるといち早く、来日外国人へのお土産と商品を売り出すことで復興しました。
日本が高度成長期に入りミキモトは世界的なデザインコンテストであるダイヤモンド・インターナショナル賞も数多く受賞し、90年代初めには売上げ400億円を超えました。
現在ミキモトは真珠で知られる他、世界の宝石店に並ぶ日本唯一のブランドと言われています。
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MOUBOUSSIN(モーブッサン)
1827年、モンシュール・ロシェにより創業されました。
現在はヴァンクリーフ&アーペル、ショーメ、メレリオ・ディ・メレー、ブシュロンと並びグランサンク(パリ5大宝飾店)の一つであり、モーブッサンはファミリーから経営が離れたことの無いメゾンとして有名です。
モーブッサンは180年の歴史を誇る名門になり、全てのジュエリーがオリジナルハンドメイドとなり、その技巧と洗練された気品あるデザインは多くのグランプリを受賞しています。
2005年に東京の銀座にショップをオープンさせ、2年後の2007年にはフランス、パリのシャンゼリゼ通りに、黒田アキが内装を手掛けたショップをオープンしました。
続き更に2年後の2009年には、東京の銀座にモーブッサンの旗艦店をオープンさせ、同年の6月に銀座店を訪れた顧客、先着5000人に、カットした0.1カラットの約5,000円相当のダイヤモンドを無料配布してキャンペーンを実施したことは、大きく報道され話題になりました。
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MARC JACOBS(マーク・ジェイコブス)
1963年マーク・ジェイコブス(MARC JACOBS)は、アメリカのニューヨークに生まれました。
マーク・ジェイコブスは高校”ハイスクール・オブ・アート・デザイン”に在学中にセレクトショップの”シャリバリ”で働きながら、芸術に対する知識や優れた技量を培ってゆきました。
1981年パーソンズ・スクール・オブ・デザインに入学し、その才能を発揮し活動を広めてゆきました。
1984年に更にその活動を広げ、親友の”ロバート・ダフィ”とジェイコブス・ダフィ・デザイン社を設立しました。
1986年マークジェイコブスのブランドが初めてのコレクションを開催し、翌年の1987年にはCFDAの新人デザイナー賞、”ペリーエリス賞”などの様々な賞を最年少で受賞しました。
1988年にパーソンズ卒業後、一流ブランドの”ペリーエリスに”1989年ロバート・ダフィと共に入社し、カジュアルウェアのデザインを監修しました。
すでにこの時に若くして、ニューヨークを代表するデザイナー”ペリー・エリス”の後継者になりました。
マーク・ジェイコブスは、グランジ・ファッションが持つダウン・ビートに影響を受けたことで、
素材を生かしたレイヤードデザインの”グランジ・コレクション”をペリー・エリスのコレクションで発表しました。
しかし、マーク・ジェイコブスのデザインは顧客には受け入れられず、ペリー・エリスは契約中でしたが解雇されてしまいました。
1993年にはいると、マーク・ジェイコブスインターナショナル社を設立しました。
その翌年の1994年には自身の名前をつけたブランドでニューヨークコレクションに参加をし、本格的に海外進出に向かいました。
1997年、マーク・ジェイコブスはプレタ・ポルテ参入をすることを計画していたルイ・ヴィトンのアーティスティックデザイナーに選抜される。
2001年に入り、”マーク・バイ・マーク・ジェイコブス”をスタートさせました。
ルイ・ヴィトンの親会社のLVMHが資本参加したことで、マーク・ジェイコブスブランドは世界的に拡大しました。
2007年にはマーク・ジェイコブス原宿店がオープンしました。
現在は、ウェアはもちろん、靴、バッグ、香水、化粧品など全てのアイテムにおいて女性に人気があり、ファッション誌エディターやスタイリストたちの間でも、根強い人気があります。
N
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NOMOS GLASHUTTE(ノモス・グラスヒュッテ)
ドイツ時計産業の中心地グラスヒュッテ。
東西ドイツ統合以降、同地を本拠地とする休眠状態のブランドが次々に復興を果たす。
1992年にR・シュベルトナーにより復興されたノモスもそのひとつである。
芸術と技術を融合を主導したバウハウス(ワイマール時代の芸術学校)の影響を色濃く残すノモスのデザイン。
とてもシンプルでありながら繊細な時計は広く支持を受けている。
O
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ORIS(オリス)
1904年、ポール・カッティンとジョルジュ・クリスチャンが、スイス・バーゼル地方に流れるオリス川の近くに時計工場を設立したことからオリスは始まった。
当時、腕時計は女性の装飾品の趣向が強く、懐中時計の発展形として男性用はまだまだであった。
そこに注目したオリスはいち早く腕時計の専門工場を立ち上げる。
そして1930年代、オリスの研究が花開くことになる。
1939年に世界初のポインターデイト機構の発表である。
ダイヤル外周に配された日付表示を専用の指針で読み取るという同機構は、
多くの他ブランドでも採用をされている。
1941年には飛行機のパイロットがグローブをしながらのリューズの操作を可能にした特大リューズ(ビッククラウン)の開発。
これを機にパイロットウォッチの製造に力を入れ、アメリカ陸軍航空部隊にも供給をすることになった。
近年においてもオリスは、実用的かつバラエティ豊かな商品がラインナップされている。
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OMEGA(オメガ)
1848年、ルイ・ブランがにスイス時計の中心地で知られるラ・ショード・フォンに、後にオメガへと成長を遂げる小さな時計工房を創立した。
創立当時は組み立て専門の時計工房であったのだが、イギリスを中心としたヨーロッパ全体やアメリカの市場への進出、世界的な市場展開を見据え、「マニュファクチュール」へと変貌を遂げていくため1880年にビエンヌへ本社を移転し、事業規模をさらに拡大していった。
1989年にはスイス最大の時計メーカーとなり、1900年初頭に「究極」を意味するギリシャ文字の最後の文字「Ω=オメガ」の名を社名へと変更した。
オメガ社は更なる進化を遂げ、オリンピックの公式計時として1932年のロサンゼルスから2004年のアテネまで数多くの大会で公式計時を担い、その名を世界に轟かせていく。
2度の世界大戦があったものの、大きな打撃を受けることなく、戦勝国のアメリカで巨大化を果たす。
これがアメリカ航空宇宙局のNASAとの出会うきっかけとなった。
NASAはいくつかの市販モデルを無作為に抽出、過酷な宇宙で耐えうる試験を行った。
その試験に合格したのが、唯一オメガのスピードマスターだけであった。
こうしてスピードマスターはアポロ11号による人類初の月面着陸に携行され、オメガは究極の時計としてその名を歴史に刻んだのである。
P
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PANERAI(パネライ)
1850年頃、イタリアのフィレンツェに初めてできた時計店、G、パネライ時計店が、パネライの前身。
当時のイタリアでは、数少ないスイス高級時計を扱う専門店として知られていた。
また時計販売に加え、高精度のクロノグラフ付き懐中時計や蛍光防水機器を独自に開発。
特に、1910年頃に開発された発光物質ラジオミールは圧倒的な蛍光性を誇るものだった。
これを利用した照準器やコンパスはイタリア海軍にも納入され、パネライの地歩固めていった。
第二次世界大戦中は、ラジオミールを応用した海軍特殊部隊用の時計を開発。
パネライ初の腕時計にして高い発光性を持つその防水時計は、
「ラジオミール」と名づけられ、数多くの軍事作戦に貢献した。
誕生当時のモデルには、ケースとムーブメントはロレックス社製だったため、ブランド名は入っていない。
終戦後、ラジオミールに代わって非放射性蛍光物質を採用したルミノールウォッチを発表。
しかし一般に公開されることもなく、イタリア海軍をはじめとする軍用に限定されていた。
1993年にパネライ初の民間用腕時計が登場。
1995年にはシルベスター・スタローンの主演映画「デイライト」で使用されたことから注目を浴びるようになった。
1997年にはヴァンドームグループ(現リシュモン)・グループの傘下に入り、本格的な生産体制が整えられた。
2006年には、イタリアを本拠地とするフェラーリと強固な信頼関係を結び、フェラーリ・ウォッチコレクションを発表。
パネライは大型ケース・ブームの火付け役となったブランドとしても注目されるようになった。
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PATEK PHILIPPE(パテック フィリップ)
1939年、時計工業の中心地ジュネーブにパテック・チャベック社が設立される。
設立者はアントワーヌ・ド・パテック。ポーランドからの亡命貴族であった。
帝政ロシアの圧政下、祖国ポーランドを後にしてジュネーブに逃れのだ。
パテックにとって新天地スイスはとても刺激的な場所であった。
時計の産業もそのひとつで、その後、時計師のフランソワ・チャベックとの出会いから会社を設立することになる。
1944年に転機が訪れる。
パリで開催された博覧会で発表されたリューズ巻き方式の薄型ポケットウォッチに、パテックは刺激を受ける。
開発者はジャン・アドリアン・フィリップ。
従来の鍵巻きに代わる新技術のリューズ巻きに大きな可能性を感じ、製品化したものだった。
これに同感したたパテックはチャベックの後任にフィリップを迎え入れたのであった。
その後、この出会いが傑作を生み出す契機となっていく。
1846年には初の独立分針、2年後にはフリーゼンマイが開発。
1851年にパテック・フィリップと改称。
同年ロンドン大博覧会で金メダル受賞の名誉に輝き、王侯貴族や名士たちを愛用者として獲得した。
こうした創業期を経て、20世紀に入り、技術は磨かれ、完成度も高まっていった。
シンプルで控えめなデザイン、そして決して技術を誇示しない。
ダイヤル、針、すべてにおいて人間的な美しさを覚える。
至高の時計、芸術品といわれる所以がそこにはある。
あらゆる賛辞をほしいままに時計界のトップに君臨する、
それがパテック・フィリップの時計なのです。
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PIAGET(ピアジェ)
1874年、スイス・ジュウ渓谷のふもと、ラ・コート・オ・フェで産声を上げる。
同社はまず、脱進機の開発、次いでムーブメントの部品製造に取り組む。
1920年代には、そのクォリティが高く評価され、他社にムーブメントを供給するようになった。
その際、長い期間採用されたのが、1957年に発表された名機として名高い自動巻きCal.9Pである。
同年の高級路線を打ち出し「ピアジェ・ルック」と呼ばれるケースに貴金属を採用したモデルを次々と発表。
世界中のセレブリティに愛用された。
1988年にリシュモングループの傘下へ、経営の近代化に取り組む。
その後、手巻き式Cal.430P、自動巻き式Cal.500Pを開発、世界的な評価を得る。
ステイタス性の高い宝飾メーカーにして、自社一貫生産を行うマニュファクチュール。
ピアジェは、そんなデザインとハイクオリティを追求するブランドである。
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PRADA(プラダ)
マリオ・プラダが1913年にミラノに皮革製品店を開業してからプラダの歴史は始まります。
プラダは世界から珍しい素材や質の高い皮を集め、イタリア職人の技術によりアイテムを作っていました。
そしてそれらのこだわりの製品が、ブルジョアの間で評判になり、イタリア王室の御用達ブランドとなりました。
1958年に創業者であるマリオ・プラダが死去し、マリオの娘がビジネスを引き継いだものの、時代の変化とともに豪華な品々は人々のライフスタイルにそぐわなくなり、倒産寸前にまで追い詰められました。
その後1978年に、マリオの孫娘であるミウッチャ・プラダがオーナー兼デザイナーに就任しました。
ミウチャ・プラダは1950年イタリアのミラノで生まれ、現代的で革新的なデザインや素材を使い、女性らしさを引き出すデザイナーとして、ファッション界にプラダの製品を返り咲かせました。
そしてマリオが旅行用カバンに用いていた工業用防水ナイロン素材「ポコノ」製のバッグを開発し、日本やアメリカなどで人気が出ました。
さらに、1996年には逆三角形のロゴプレートを付けたポコノ製品が広く展開されたことによって、プラダの名前が広く知れ渡りました。
1999年、LVMH社と合弁会社を作り、経営難に陥っていたファッションブランド「フェンディ」を買収したものの、フェンディの経営を立て直すことが出来ないまま、2001年、全株式をLVMH社に売却しました。
プラダは、現在でもこの時の負債を抱えています。
また、1996年には、ヘルムート・ラングとジル・サンダーを買収しましたが、両者とも既に手放しておりさらに、同年にグッチ株を買収しますが、1999年までに全てをLVMHに譲渡しました。
2003年に入ると、東京・銀座中央通りのセフォラ跡地に国内最大級のブティックをオープンしました。
現在はミウッチャ・プラダの夫であるパトリッツィオ・ベルテッリがプラダグループの総帥になり、プラダは今も尚、伝統を継承しつつも時代のニーズに答える、ブランドとして、世界から注目されるブランドであり続けています。
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RENE LALIQUE(ルネ ラリック)
ルネ・ラリックを今日では、ガラス作家と思う人々が多いですが、それはただ単にラリックの作る独創的で芸術的なジュエリーがあまりにも目を惹く作品が故に数多く模倣されてしまい、そんなジュエリー界に失望したラリックがガラスの世界に挑戦したところ、ガラスの分野に置いても成功し過ぎたからであると言われています。
ルネ・ラリックは1860年にフランス、シャンパーニュ地方に生まれ、パリで育ちました。
1876年パリの装飾美術学校に入学し、その後1878年~1880年にイギリスに滞在しサイデナム・カレッジで学びました。
1880年代にはパリに戻り、デザイナーとし、多くの作品をパリの宝石店に売りました。
この頃にラリックのデザインを使ったのはオーコック、ブシュロン、ヴェヴェールなどの宝石店があります。
1885年よりパリのヴァンドーム広場にアトリエを構え、その後当時の有名女優サラ・ベルナールを顧客とし、レジオン・ド ヌール勲章を受章、パリの万国博覧会で宝飾作品が注目を集めるなど、15年の間がラリックにとってジュエリー作家としての頂点の時期でした。
ラリックのジュエリーがジュエリー市場最もユニークと言われているのは、その発想の奇抜さと、それをジュエリーに仕上げる為の素材の選び方や技術の確かさがあります。
デザインでは有名なもので、半裸の女性を食べるようなトンボ、老人のヒゲの中で眠る半裸の女性など、今までならばジュエリーに成りえない奇抜なデザインが見事にジュエリーになっています。
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ROGER DUBUIS(ロジェ・デュブイ)
ロジェ・デュブイは、15歳でジュネーブの時計学校に入学。卒業後、ロンジンを経てパテック社に入社。
22歳で機械式複雑時計部門の技術責任者を務めた。
1980年に独立、当初はアンティーク複雑時計の修理、復元をてがけ、
多くのブランドから複雑系ムーブメントの開発、製作を依頼される。
1995年、57歳にして経営パートナーでありデザイナーのカルロス・ディアスとともに、
自分達の名を冠にしたブランド「ロジェ・デュブイ」を立ち上げた。
ロジェ・デュブイのスローガンは「伝統に立脚した芸術的な時計製作」、
その時計は独創的に溢れるが、ジュネーブの伝統を強く意識したものであった。
全てのモデルが28本の限定生産。
全モデルにジュネーブシールを取得(一部のモデルはブサンソン天文台の精度検定にも合格)。
全てはロジェ・デュブイの才能の証明であり、その至高の価値「ジュネーブ」を守る意志の証明なのである
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ROLEX (ロレックス)
1905年、ロンドンにひとつの時計会社が誕生した。
ロレックスの前身である「ウィルスドルフ&デイビス社」である。
その創設者、ハンス・ウィルスドルフは、懐中時計が主流だった時代にいち早く腕時計の製造に取り組む。
これを受けて、腕時計に対応する小型ながら高性能の女性用ムーブメントを開発していたジャン・エグラー社と供給契約を交わした。
1907年には、事務所をスイスのラ・ショード・フォンに開設。
その翌年には自社ブランド、「ロレックス」が誕生した。
同社の腕時計の優秀性は1910年に初のクロノメーター認定によって実証される。
これによって、高精度なロレックスの腕時計が広く認知されるようになった。
高い技術開発力を武器に、ロレックスは1926年、時計史に残る偉業を達成する。
オイスターケースの発明である。
金属塊を削りだして作られる堅牢なケースとスクリュー式の裏蓋とリューズの組み合わせることにより、
比類なき防水性能を実現したのだ。
この翌年、イギリス人の女性速記者のメルセデス・グライツがロレックス・オイスターを着用したままドーバー海峡横断を完泳したことからもオイスターケースの防水性能の高さの程が伺える。
その後も、次々と現在に受け継がれるさまざまな機構を開発する。
ムーブメントのローターを全回転式にすることで自動巻きの巻上げ効率を向上させた「パーペチュアル」や、
0時を境に瞬時に変わる日付表示「デイトジャスト」などである。
その一方で製品ラインナップの多様化も図られる。
1953年、ダイバーズ・ウォッチの名作として有名な「オイスター・パーペチュアル・サブマリーナー」が誕生。
さらに同年、探検家用の腕時計「エクスプローラー」、
次いで1957年には「GMTマスター」、
そして1960年代にはクロノグラフ「デイトナ」が登場する。
この「デイトナ」に2000年、初の自社製自動巻きムーブメントが搭載されたことで、全モデルが一貫生産となった。
これにより、名実ともに時計界のトップに君臨したといえる。
S
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SEIKO(セイコー)
1881年、服部金太郎が創業した服部時計店からセイコーの歴史は始まる。
創業当時は時計の修理、販売、外国製の時計の仕入れを行っていた。
1892年、時計の製造工場「精工舎」を設立。
念願であった自社製品の製造を開始した。
1895年、日本発の国産懐中時計「タイムキーパー」を発売。
1913年に国産初の腕時計「ローレル」を販売。
1924年から文字盤に「SEIKO」という欧文のブランド記がされるようになった。
国内の圧倒的なシェアを実現し、セイコーは海外へと目を向ける。
スイス時計に負けない精度への追求、
こうして1960年、スイスクロノメーターに匹敵する「グランドセイコー」が誕生した。
以降、同ラインには「GS規格」といわれる厳格な検査基準を実施、現在に至る徹底的な品質管理を行っている。
また同じ頃、セイコーはスイス「ニューシャル天文台コンクール」「ジュネーブ天文台コンクール」に参加、
スイスブランドに負けない成績を残している。
また1964年に開催された東京オリンピックで公式時計を担当し、その技術力の高さを世界にアピールした。
さらに次世代ムーブメントとしてクォーツに注目、1969年に世界初のクォーツ時計「クォーツアストロン」を発表。
月差±5秒という驚異的な精度は、スイスの時計業界を震撼させた。
「世界のセイコー」の地位を確立し、
1988年には電池交換が必要のないクォーツ腕時計「オート・クォーツ」(現キネティック)を発売、
1999には第三の駆動機構「スプリングドライブ」を発売。
現在に至るまで、セイコーは高度な精密技術でありながら、実用性に優れた時計を開発し続けている。
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Sinn(ジン)
1961年、第二次世界大戦でドイツの空軍パイロットとして活躍したヘルムート・ジンがパイロット向けの腕時計を作るため「ジン特殊時計会社」を設立。
その後も豊富な経験を生かし手作りにこだわるクラフトマンシップに基づき、
実用性の高い製品を作り続けている。
ジンの代表作として挙げられる「155」は1960年代にドイツ軍に正式採用。
様々な進化を経て、現在に受け継がれている。
有名ブランドメーカーでチーフエンジニアとして活躍をしてきた、経営責任者のローター・シュミットは、
創業者の理念を受け継ぎ、各分野のプロフェッショナルの時計開発をしている。
全てのモデルはDIN「ドイツ工業規格」に基づいて作られており、厳しい検査体制のもと製造されています。
T
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TAG HEUER(タグ・ホイヤー)
ホイヤー社は1860年、弱冠20歳のエドワード・ホイヤーによってスイス、サンティミエに創業された。
エドワードは1968年、リューズ巻きポケットウォッチの開発特許を取得し、今日の基盤を固めた。
1989年のパリ万博ではスプリット・セコンド・ポケットクロノラフを出品し、銀メダルを受賞。
そして1916年には、当時としては画期的な100分の1まで計測できる懐中時計型クロノグラフを開発。
この実績から1920年のアントワーヌ大会から3年連続でオリンピックの公式時計に採用されました。
タグ・ホイヤーを語る上でモータースポーツとの関わりも見逃せない。
1911年には航空機のダッシュボードクロックの名作「ラリーマスター」を発表。
1969年にはブライトリング、ビューレン(現ハミルトン)とのプロジェクトで、世界発の自動巻きクロノグラフ・ムーブメント「クロノマチック」の開発に成功している。
同ムーブメントを搭載した「モナコ」は映画スターのスティーブ・マックイーンに愛用されたことでも有名である。
1970年にクォーツショックで経営の危機に陥ったものの、F1マクラーレン・チームのオーナー会社であったタグ・グループの投資によりタグ・ホイヤーとして復活した。
タグ・ホイヤーはF1を含め各スポーツ競技をサポートすることで、幅広く認知されている。
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TIFFANY(ティファニー)
1812年に生まれたティファニーの創業者チャールズ・ルイス・ティファニーは1837年、ニューヨーク州コネティカットの田舎町を飛び出してニューヨークに向かいました。
そして父親から借りた1000ドルを資本に、同級生ジョン・B・ヤングとともにニューヨーク・ブロードウェイ259番地に文房具と装飾品の店、ティファニー・アンド・ヤングという会社を設立しました。
1848年フランスでの二月革命発生に伴い、アメリカで最初に貴族から重要な宝石を入手したことで宝石事業に進出しました。
そしてこの事業が大成功し、ティファニーはアメリカ第一の宝石商という地位を確立しました。
チャールズ・ルイス・ティファニーはこれより“キング・オブ・ダイヤモンド”として広く知られるようになります。
1851年にニューヨークの銀細工師、ジョン・C・ムーアの事業を買収し銀製品製造を開始しました。
アメリカ企業としては初めて銀の純度が95%以上のスターリングシルバー基準を適用しました。
1853年、チャールズ・ルイス・ティファニーは共同経営者達から経営権を買い取り会社の全権を握ると、店舗をブロードウェイ550番地に移転し社名を今の、Tiffany & Co.に改称しました。
また同年にティファニーブルーと呼ばれるカンパニーカラーを始めて使用しました。
1886年、ダイヤモンドを6本の爪で支える“ティファニーセッティング”を発表しました。
1940年ティファニー本社を現在のニューヨーク5番街57丁目に移転し、1952年にはパリ店を開店しました。
このニューヨーク店の場所は、後にオードリー・ヘップバーン主演の“ティファニーで朝食を”という映画でも有名になります。
続き1963年にはサンフランシスコ店をオープンし、1969年にタンザニアで発見された青色のゾイサイトをタンザナイトと名づけ売り出しました。
1972年には日本の三越日本橋店にオープンし、“ティファニーで朝食を”の映画も火付け役となり、男性から女性にプレゼントする人気NO1ブランドへと発展しました。
1980年代は現在も尚人気のパロマ・ピカソ、ジュエリーコレクションを発表しました。
1996年になるとマイケル・J・コワルスキーが社長に就任しました。
2007年にはティファニー“ノヴォ”を発表し、ウォールストリート37番地にティファニーブティックをオープンしました。
現在ティファニーは宝石店として世界で知られるジュエリーブランドになります。
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ULYSSE NARDIN(ユリス・ナルダン)
1846年、ユリス・ナルダンは23歳の若さで自分の名前を冠にした時計製造会社を設立した。
創業当初より他に類を見ない高性能な時計作りを目指し、マリーンクロノメーターの精度向上に情熱を注ぐ。
1862年にロンドンで開催された世界博覧会では優勝を遂げ、ユリス・ナルダンのマリーンクロノメーターは各国の海軍や造船所に正式採用となった。
その翌年にもブレゲ100周年のコンテストでも1等を受賞、ユリス・ナルダンの名声は不動のものとなっていった。
しかし、1970年代に一時、工場閉鎖へ追い込まれてしまったが、、
1983年、ロルフ・W・シュニーダーが経営に乗り出し、見事に復活を遂げた。
そして同年、天才時計師ルードビッヒ・エクスりンが発表した「アストロラビウム・ガリレオガリレイ」が時計業界を震撼させることになる。
標準時、地方時、黄道十二宮、日食、月食、不定時方の時間表示をリューズひとつで調整することができる超複雑時計であった。
現在は各種複雑時計をはじめ、防水時計「マリーン」など幅広いラインナップがある。
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UYEDA JEWELLER(ウエダ ジュエラー)
東京の日比谷、帝国ホテルのアーケード内にある店と、小さなオフィスを構えるウエダジュエラーは、日本を代表する宝石店で、1884年(明治17年)創業と日本最古の宝石店の一つになります。
また、自分が売るものを自分で作るという欧州型の宝石店として、大変日本では異色の宝石店でもありました。
1884年に初代植田吉五郎により、現在の西銀座に開業し、その後、近代建築の三大巨匠と呼ばれるフランク・ロイド・ライトの設計で1923年に竣工した帝国ホテルのアーケードに出店することに成功し、さらに二代目の富士郎・義己兄弟の手で宝石の世界への進出に成功しました。
1960年代から高度成長に支えられた日本人の裕福層がジュエリーを買い始め、ウエダもまたそれに合わすように日本人顧客へのシフトを完了しました。
そして1963年に三代目社長になった植田新太郎の功績によって、ウエダは本格的なジュエラーになりました。
それに伴いこれまで扱ってきた真珠や翡翠、銀器からジュエリーの中心であるダイヤモンドの製品へと進出を図りました。
その後、ウエダは一店舗・一事務所のままで見事なジュエリーを作り出しています。
ウエダは、奇抜で目立つジュエリーを求める人には向かないオーソドックスで上品な作品を作ることで知られています。
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VACHERON CONSTANTIN(ヴァシュロン・コンスタンタン)
創業者はジャン・マルク・ヴァシュロン。
1755年にヴァシュロン・コンスタンタンの前進である時計工房が、スイスの中心の都市ジュネーブに開設される。
1919年、3代目に当たるジャック・バルテレミーがフランソワ・コンスタンタンを共同経営者に迎えたのを機に「ヴァシュロン・コンスタンタン」と改称した。
ジャック・バルテレミーは、イタリアをはじめとする海外に積極的に進出を図り、その友人のコンスタンタンに一任。
そして繁栄を極める中、新たなパートナー、ジョルジュ・A・レジョーが経営に参加する。
レジョーは新たなレバー式脱進機を発明するなど、革新的な発明をしていった。
その後、組織的な分業生産システムを構築、家内製手工業的な生産から脱却を図っていく。
20世紀初頭にはグランドコンプリケーションの第1号、パーペチュアルカレンダーを搭載したミニッツリピーター、ムーンフェイズなどを次々と発表。
第二次坂井大戦後には、ジュネーブ平和会議に参加した米、ソ、英、仏、4カ国の首脳に時計を寄贈すうるなど、その名を世界的なものとした。
ヴァシュロン・コンスタンタンは、ドレスモデルに限らず、複雑時計であってもさりげなく見せる、
そんな確かな技術を擁する名門ブランドである。
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VAN CLEEF&ARPELS(ヴァンクリーフ&アーペル)
ヴァンクリーフ&アーペルはカラフルで立体的なジュエリーが特徴的であり、1906年にオランダ人であるアルフレッド・ヴァン・クリーフとその兄弟であるフランス人の兄弟シャルル・アーペルとジュリアン・アーペルが共同して創立しました。
1906年“ヴァンクリーフ&アーペル”という名で最も高級とされるパリのヴァンドーム広場に出店しました。
1925年“薔薇の花”というブローチでアール・デコ展大賞を受賞しました。また、この薔薇の花には金属枠にあわせて石をカットし埋め込むという“カリブル・カット”技法が用いられました。
1933年表から見た時に石を留める爪の部分が見えない“ミステリー・セッティング”を開発しました。この技法は現在でも多くのジュエリーに用いられています。
1999年スイスの利シュモングループの傘下に入りました。
最近では2008年にクロエとコラボレーションし、白蝶貝、黒蝶貝、オニキスの「アルハンブラ」を贅沢に使ったネックレスなどを発表しました。
ヴァンクリーフ&アーペルのクローバーをモチーフにした“アルハンブラ”は今や注目のジュエリーですが、その他にも蝶やハート等の女性を上品で可憐に魅せてくれるジュエリーも人気のブランドです。
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YVES SAINT LAURANT(イヴ サンローラン)
イブ・サンローランは、1936年フランスの植民地のアルジェリアのオランで生まれました。
イブは子供の頃パリへ引越し、パリのファッションデザイン学校に1953年の17歳の時に入学しました。
そしてこの学校を抜群の成績で卒業後、1954年の国際羊毛事務局主催のデザインコンテストのドレス部門でカクテルドレスを発表し第1位に入賞しました。
この入賞がディオールに認められ、18歳でディオールのメゾンに入店し、下絵書きを担当しました。
1957年にディオールの急逝後の店の後継者に選ばれました。
1985クリスチャン・ディオールの死後初めて、パリのコレクションで“トラペーズライン”を発表しました。
1960年アルジェリア独立戦争時フランス軍として勤める為に徴兵されましたが、イブは大きなストレスを抱えて神経衰弱の為に精神病院に収容されてしまいました。
これが原因となり、イヴは1962年ディオールを去ることになりました。
1962年、イブはピエール・ベルジェの出資により、共にオートクチュールメゾンである“イブ・サンローラン”を設立しました。
設立後の活動として、シースルー、サファリルック、モンドリアンルック、スモーキング、パンタロン等の60年代を代表するスタイルを発表しました。
1966年プレタポルテのコレクションに女優カトリーヌ・ドヌーブが立ち、それ以来はイブ・サンローランが“私はいつも、ドヌーヴをイメージしてデザインしている”と言わしめるほど、1960年代後半まではカトリーヌ・ドヌーブがマスコット的な存在となっていました。
1989年にはデザイナーとして初の株の公開を証券取引で行いました。
そして2001年にグッチによりプレタポルテ“イヴ・サンローラン・リゴ・ゴーシュ”が買収されました。
2001年にクリエイティブ・ディレクターにトム・フォードが就任しました。
2002年1月22日、サンローランはパリでのオートクチュールコレクションを最後にデザイナーを引退しました。
2003年11月、トム・フォードが辞任し、その後2005年にステファノ・ピラーティがクリエイティブ・ディレクターに就任しました。
2007年6月に二コラ・サラコジ大統領からレジオン・ドヌールオフィシエ級を授勲しました。
2008年6月1日、サンローランは71歳でガンの為逝去しました。
現在は、「裸体ほど美しいものはない。女性を纏うことのできるもっとも美しい服は、愛する男の腕で ある。しかし、この幸福をみつける機会のない女性のために、私はここにいる。」という言葉を残したように、アート性が濃く、個性的なファッションとして人気があります。